自由意思について考える.

哲学の創始者ともいえる古代の有名な3人の哲学者ソクラテスプラトンアリストテレスらは『自由とは何か』をテーマにした哲学的重要未解決課題でもあるこの問題について頭を悩まされた事だろう。

ここから話は飛んで中世のころの『決定論と非決定論』を巡る哲学について少し見ておこう。

そもそも、決定論とは、一言で言うなれば『微分方程式』ですね。

各現象はすべて以前に発生した現象に依存する。つまり、過去が未来を決定したらしめること。

何とも我々にとって見れば受け入れがたい立場の見解です。

支配者は当然、神学的な要素や心理学的な要素でもってなされるだろう。

つまり、当時の考えでは『ラプラスのデーモン』と呼ばれる悪魔が、過去、現在、我々の世界を支配する自然法則に関する全てを知り、その知識は余すところなく未来へと仮託されるもの。

物理学的な根拠も伺えるが、量子力学と心理の関連性が現代の科学で実証なされない限り、万物の成り立ち(例.地球誕生)は証明されたとしても人間の心までは証明できない。これは現代に活かされた哲学者にとっての課題でもあるが、そもそも量子論と人間の心の結びつきを科学的に説明しようとする点が無謀に思えてならない。そんなに単純なものだろうか、人間は。

さて、一方の非決定論とは、決定論の否定形。

我々は、『現に自由に行動しているじゃないか』という立場の考えです。

人間の心においてはある程度説明ができているような気がしないでもないが、科学的知見に基づいた場合は決定論の方が現実味を帯びている。

ここで、自由意志は決定論の中に存在し得るかどうか考えてみる。

ちょっと面倒なので引用します^^;

ホッブズのような両立主義者は一般に、人が行為を意志しその人が意志したならば別様に行為することが(仮言的に)できただろう場合にのみ、人は自由に行為する、と主張する。彼らはしばしば、強姦、殺人、強盗、等々といった誰かの自由意志が否定される明快な事態を指摘する。この事態のカギは、過去が未来を決定しないという点にでなく、侵害者が犠牲者固有の行為についての欲求や選好を無視するという点にある。侵害者は、犠牲者に自由意志を無にすることを強いる。決定論は問題でなく、我々の選択が我々自身の欲求や選好の結果であり、いかなる外的な力によって(あるいは内的な力によってですら)も無視されない、ということが重要なのである。

ここでも指摘されている通り、人間の自由も或る程度は保障されいると考える人側の考え方です。

結局、どれが正しいといった真に迫る明確な根拠はなく、現代まで残っている課題がこれということになります。