考える上で必要な『モノ』

我思う、故に我あり。

代数学・哲学の祖デカルトは、自分のお気に入りということもありまして『rena_descarte』とH.Nに拝借させてもらっております。

『ルネ・デカルト』って本当はこれとは違ったふうに表記され、読まれるのだけれど、人物に関するローマ字読みは差異が出るので個人の自由によるかと思う。

アルバート・アインシュタインアルベルト・アインシュタイン(朝日の報道はアルベルトでしたw)と双方呼ばれるのと同じことだ。(主に後者が多数だが)

そのデカルト方法序説の中で残した言葉『我推う、故に我あり』。

思惟する上では自ずと疑いきれぬ真があるということになる。

この哲学の第一原理となった言葉を発見するのには、学問を超えて人びとの触れ合いを重視し、様々な所見を身につけた上で、再度唯一の真への道へとこだわりを貫いた結果、偉大な発見をした。

以前もこのような話は何度もしているが、哲学の重要性や蓋然性の受け取り方は積極的になるべきだと思われる。

ドラゴン桜にもあったが、いや、それに限らず、『思惟する』ことは、人類の最大の悦びであるからだ。

日々の生活の上での考える時間の量と数パーセントの質によって能力の大半が決まらざるを得ないのは必然性は伴わないだろうが確実だと受け入れられるだろう。


以上より、『哲学』やそれに内在する『論理学』類などは、是非とも暇潰し程度でもいいので、やっておくと可能性のある未来がまっているだろう。少なくとも多少の論理力は付く^^


そして、これに理系の要である『数学類』を脳に同伴させれば、ほぼ怖いもんなしといえるだろう。


ここで、『ほぼ』といったのは、第三には『広い意味での社会的知見』の付随に因る格段の飛躍が望めるからである。見識が広まるのは当然として、判断力、決断力、応用力が付くだろうから。

この3点が非常に強ければ、恐らくは一寸やそっとのことじゃ倒れないだろう。

たとえ、あるテリトリーの手中になくても地盤が、強固で日々肥大していくので、困難には充分に対処可能かと思われる。

あくまでも、このような人物像は『自分のリソウ』であり、日々このようになるべく精進を重ねている。(これを目指すと国際力が貧弱になり得るのは微妙な感じがするが...^^;